T-BOLAN「Tears Summit 2018~約束の場所~」REPORT

2018/07/22 @渋谷eggman

Photographer 田中 聖太郎

会場収容人数の関係で、プラチナチケットとなった渋谷eggmanでのライブイベント。その模様を写真とレポートでお伝えします。

前身バンド“BOLAN”がインディーズデビューして丸30年を迎えた記念日。森友嵐士(Vo.)、青木和義(Dr.)、五味孝氏(Gt.)、上野博文(Ba.)の4人は、東京・渋谷のライブハウス「eggman」で「Tears Summit 2018~約束の場所~」と題したライブイベントを開催した。インディーズ時代の秘話を明かした上で、メジャーデビュー曲「悲しみが痛いよ」から最新曲「Re:I」に至るまでのミュージックビデオをファンと共に鑑賞しながら当時の懐かしい思い出を振り返る内容。後半のライブではアンコールを含む6曲を披露。くも膜下出血からの完全復活を目指す上野も黒夢ベーシスト人時のサポートの中、全編ステージに立つことができた。ライブハウスでの公演は1989年10月9日のBOLANのラストライブ以来約29年ぶりで、T-BOLANの現メンバーでは初めて。記念日にメンバー同士の深い絆を確かめ合った4人は、『T-BOLAN第2章』の幕開けを宣言した。

1988年7月22日。森友と青木がメンバーだったBOLANは、シングル「I WAITED FOR A TIME」でインディーズデビュー。年間150本ほどのライブをこなすが、無名だっただけに苦節の連続だった。群馬・前橋で対バン形式のライブに出演したところ、客はたったの1人だったという忘れられない苦い思い出もあるものの、メンバーがチケットを手売りするなど汗水を流し、徐々に人気を集めていった。やがて原宿の歩行者天国はバンドの聖地となり、ある日、森友は事務所のプロデューサーからホコ天ライブを勧められたという。
森友「嫌だって言ったんだ。俺たちには似合わないでしょ、太陽の下は。スタイル的にも音楽的にも…。無理な条件を出せばあきらめると思って、『ステージカーと、でかいスピーカーと。機材が他と違う感じで特別なもの用意してくれたらいいですよ』って言ったら1週間後、『森友、用意したからよろしく!』って。マジ⁉と、俺の完敗だよ(笑)」
何と、事務所が4㌧トラックのステージカーを本当に用意してしてしまったのだった。急きょBOLANの旗を制作することになり、森友が型紙に文字を抜いて作ったという。
五味「じつは俺、そのステージ見に行ってるんだよね」
上野「その当時、僕もホコ天でバンドやっていましたよ。たぶん、どこかですれ違っていたと思います」
初耳のエピソードにメンバー同士も驚いていた。

その後、夢の価値観や、音楽性の違いから森友はBOLAN脱退を申し入れた。
何より、一番好きな音楽をこのままでは、一番嫌いになってしまいそうな気持ちに包まれていたからだ。脱退後、これまでの全てを手放し、森友はゼロから自分の思い描くバンドの形を摸索、5つのバンドを作ることになる。その中の一つのバンドには五味が、そしてもう一つのバンドには上野がいた。摸索を始めて一年半の時は流れ、それでもどうもすべてがしっくりと来ない。理由を考えてハッとした。「青木が後ろにいないからだ」と。笑顔で楽しそうにドラムを叩く〝太陽〟がいなければ輝くことができないと離れてみて改めて、気付いたのだった。青木と別れて1年半後…。
森友「何事もなかったかのように連絡して『元気か?おまえ』と。『いろいろあって1年半経ったけど、おまえが後ろにいないとピンとこないんだよ』と言ったら、(青木にも)『俺も』って言われた。覚えてる?『じゃあ簡単だ、もう1回やろうぜ。BOLAN再結成だ』と。そして、そのときすでに浮かんでたんだよな(五味、上野という新しい)メンバーが。そこからリーダーが俺に移り、T-BOLANのドラマが始まるわけだ。みなさん、間違っても(Tの意味は)〝タカシBOLAN〟じゃないからな(笑)」

ここから、T-BOLANの軌跡をミュージックビデオ(MV)で振り返るコーナーに。

1991年のデビュー曲「悲しみが痛いよ」は、東京・渋谷のロフト向かいのビル屋上で撮影したという。衣装はすべて自前だった。
五味「ファッションセンスが一番いいのが上野。オレら(残り)3人はやばかったね」
森友「ヘアメークに『どんな髪型にする?』って言われて、俺とっさに『ライオン』って言ったんだよな。イメージがそんな気分だった。それがあのデビュー当時のヘアスタイルにつながってね。この曲はテレビ朝日系ドラマ〝代表取締役刑事〟のエンディング・テーマ曲に起用されていた。」
青木「俺、録画してた。まだ持ってる」
森友「こいつの家行くと〝T-BOLAN博物館〟なんだよな。びっくりするよ(笑)」
セカンドシングル「離したくはない」は、もともとデビュー曲のカップリングに収録予定だった。ところがマスタリングが終わり、CDのプレス工場でデビューシングルの制作作業が始まるやいなや、プロデューサーから「森友、止めろ」と指示が下った。
森友「『何でですか?』って聞いたら『細かいことは改めて話すよ、とにかくカップリングのバラードとっておいてくれ。もう一曲あっただろ、それを大至急仕上げてくれないか』と、プロデューサーは、森友が作詞作曲した「離したくはない」が後にバンドの代表曲になることを見抜いていたようだ。
3枚目シングル「JUST ILLUSION」のMVを見ながら青木が「嵐士、髪形がカブトガニじゃなくなった」と笑った。
森友「誰がカブトガニだよ! ライブの時、(整髪料で)ガチガチに固めるから取るのに時間かかった思い出がある」
5枚目の「じれったい愛」でオリコン2位を獲得。ここからT-BOLANの怒涛の快進撃が始まる。そのMVが始まるとメンバーが一斉に吹き出した。
五味「今見ると絶対おかしいでしょ。工事現場に入っていったのに何でバンドがいるの?」楽曲がヒットするにつれてMVのスケールも大きくなっていく。
森友「廃工場とか、俺たちに汚れたセットが似合うよな」
ここで、普段ほとんど汗をかかない上野が「暑かったよね」と撮影時を思い出しながらポツリ。しかし、MVを見る限り全くそんな顔をしておらず、森友は「オマエ、涼しそうじゃん!」と突っ込んだ。
6枚目「Bye For Now」のMV撮影は米ニューヨーク。しかし、渡米前日に大事件が起きていた。ケンカに巻き込まれた五味が顔にケガを負ってしまったのだった。
五味「殴られて腫れちゃって、成田空港でメンバーから『どちらさんですか?』みたいな。警察にも『君、よく反撃しなかったね』って言われた。(場所が)線路の上だった。俺、石持ちかけたんだけど、相手2人だったし…」現地でも驚きの展開があった。
五味「着いた日に撮影してたとき、銃声が聞こえてきて。現地のコーディネーターに聞いたら『大丈夫、よくある話です』って…」さらに。
青木「階段で写真撮ったじゃん。あれ引き伸ばしたら、幽霊が写ってた!」

こうして1曲ずつ撮影時のエピソードを披露していき、1995年11月発売の14枚目「愛のために 愛の中で」の話題に。実はこの時、森友が心因性発声障害を患い、ほとんど声が出なくなっており、結果、一番最初に歌ったガイドボーカルがそのままCD音源になったという。この曲の歌入れには一年の月日をかけた。来る日も来る日も、歌と向き合う日々。そんな中で、翌年に次のシングル「Be Myself」が出せたのは、まさに奇跡だった。
森友「ちょうどそのころ、渓流釣りを始めていて、初めて川に行ってイワナの45センチ釣っちゃったんだ。めちゃくちゃテンション上がって次の日がこの曲(「Be Myself」)の歌入れだった。ずっと調子悪いままの頃だったじゃん、だけどその日、声が出たんだよ。イワナのおかげかもな(笑)。歌は心と身体のバランス、そんなことをトレーナーによくいわれてたよ。自分が好きなことにエネルギーもらって、気持ちが上がっている状態でマイクの前に立てたことが何かチカラをくれたのいかもしれない。ただ、その奇跡はその夜一夜限りだったけど。今も忘れられない出来事だよ。と当時を思い出しながら語る。」
そのときレコーディングに立ち会ったディレクターの寺尾広さんを、客席後方からステージに森友が呼び込む。寺尾さんは「覚えてますよ。イワナは覚えていなかったけど。ホントに号泣しました」と懐かしんだ。しかし、森友の声が〝復活〟したのはこの1日だけ…。バンドは活動休止状態となった。
そして1999年12月、ファンにサヨナラを言えずに解散を迎えた。

4人はそれぞれの別の道を歩むが、2011年の東日本大震災を機に再結成への気運が高まる。翌年、森友の声がけで全員が山梨・山中湖村に集結。3日間の合宿を行った。
森友「メシ一緒に食ったり飲んだり、馬鹿な話したり…。4人で全員で集まる時間なんてなんとなくは生まれないわけで、それを久しぶりに作った。ちょっと音を出せればいいと思っていた。それがさぁ、俺が一番最後に会場に行ったら、もう(他の3人の)音鳴ってるんだよね。ガンガンに(笑)。お前ら、やる気満々だなと。そこから始まって再会の乾杯をして、3日間過ごして最後の日、それぞれに「どうよ?T-BOLAN、自分にとってそれぞれの思いを聞かせて欲しいんだ。できるかできないかじゃなく、こうしたいという気持ちをそのまま聞きたい」という話をしたときに全員が同じ答えで『やっぱ、ライブをやりたいよね』ってもう一度だけでもいい、このメンバーでステージに上がりたいなと。」

この年の10月から「BEING LEGEND LIVE TOUR 2012」に出演する。最大の目的は18年前にファンを置き去りにし、解散ライブすらできなかったバンドに一度「。(マル)=終止符」を打つことだった。
森友「(ファンの)みんなはここから続いていくだろうと思っていたと思う。俺たちも〝ラストライブ〟やってみて、あとは心の思う通りにやっていこうと思っていた。やった後、それぞれの意見も食い違っていて、出した結論はひとつの『。(マル)』だった。俺たちにとってT-BOLANは家族、ひとつの実家みたいなもの。居心地はいいんだけど、それぞれが実家を飛び出して、いろんな社会で新しいものとぶつかって、違う刺激を受けて一回りも二回りも筋肉を付けて、時間が経ったそのとき、それぞれに成長した4人が集まったとき、初めて新しいT-BOLANになる気がしたから」
再集結を約束したわけではない。でも、きっとまたそんな日が来る。それぞれの思いを胸に、2014年4月に活動を休止した。森友はソロ、上野と青木は別のバンドに加入。五味はギターインストゥメンタルユニット「electro 53」の活動を本格化させていった。ところが…。

森友「その矢先だよ。倒れちまったからな。これが運命なんだよ」
2015年3月、上野がくも膜下出血で倒れ、一時は生死をさまよった。「上野が倒れたそのときの状況聞いて、完全に無理だと思った」と五味が語ったように、メンバー誰もが再集結をあきらめたのだった…上野本人を除いては。
奇跡的な回復と懸命なリハビリによって退院し、2016年2月に快気祝いの食事会を開いた。神様からもらった2度目の命をどう使いたいかを森友に問われた上野は、「ステージに立ちたい」と言い切った。
森友「上野の不幸が4人が集まる理由になっていて、一番にカウントダウンライブをやろうと。なぜかというと、時間って限りがあるなってリアルに感じちゃって、もう会えなくなるかと思ったから。こいつがライブをやりたいって言うなら、理由はそれで十分だと思って動いた。スタッフや仲間たちも同じ気持ちで動いてくれた、嬉しかったな。」
12月31日、東京・豊洲PIT。当日まで状況は不透明だったが、上野はステージに復帰した。そしてこのステージを機に、止まっていたT-BOLANの針が再び動きだした。

昨年に発表した21年ぶりの新曲「ずっと君を」のMVが流れると、森友は「やべー、泣きそうになってきちゃったよ」と感極まった。上野の復活なくして、この渾身のバラード曲が世に出せなかったからだ。そして最後は、ワンコーラス分しかMVが完成していない最新曲「Re:I」を流した。
森友「俺から上野に対する思いがいちばん中心にある曲。『励(レイ)』…励ます力は一方通行じゃなくて、上野が頑張っている姿はまた俺達も力もらうし、それを見ている周りも感動する。そうやって渦みたいに繫がる力『励』っていいなと思ってさ。この気持ちを新しいT-BOLANのスタートにしようと思ったんだ。この始まりは点じゃないよ、必ず線にしていくからな!」

T-BOLAN第2章幕開けのライブが始まった。
1曲目は、2016年のカウントダウンライブで上野が最初に演奏し、掛け声も発したのアノ曲だった。

【ライブ演奏曲】
① Happiness
② 傷だらけを抱きしめて
③ SHAKE IT
④ My life is My way
⑤ Re:I
⑥ 愛のために 愛の中で

1989年10月9日、BOLANとしてのラストライブは、ここ東京・渋谷eggmanだった。森友は隣接する渋谷公会堂を指さし「いつか復活して、ここで(ライブを)やるから来いよ!」と宣言したのだった。残念ながらその後解散してしまったが、パワーアップしたT-BOLANとして29年後、口約通り〝約束の場所〟に戻ってきた。
森友「思い出の場所で始まりの日を迎えられることがうれしい。BOLANの時期、勢いと直感だけで年間150本ライブをやってきた連中が今、またここから『50過ぎた新人バンド』でも良くないか?第2章、変わらず挑戦だから。ちょっと前までT-BOLANとして、新曲を書く気もなかったけど、やっと動きだしたよ、またここから書く気になりました。ネクストアルバムの制作にも入ることを約束するよ。これからも俺たちから目を離さずについてきてくれ」

9月29日の埼玉・東松山市民文化センターを皮切りに約23年ぶりの全国ツアーが始まる。来年3月まで23公演が予定されているが、森友は「本当は全都道府県を回りたい」と調整を続けていることを明かした。T-BOLANの第2章はこうして超攻撃的に幕を開けた。